寛容と無関心について
人間あまりにも平和すぎると何も書くことがない。
仕事もそこそこ忙しいけど順調だし、彼氏とはあまり会えないながらも付き合う前の調子でいてくれるので安定している。
それよりも彼氏が出張が多くて物理的に忙しそうなので、健康面が心配。無理が利く歳でもなくなってきたからなあ…
と、ここで本題。
皆そう思っていることかもしれないけど、わざわざ友だちと話すことでもない話なのだけど。
私はよく寛容って言われることが多く、よっぽどのことでない限り話の内容受け入れたり、話によっては寄り添うことが多い。そうなんだーそれはそれは。でもまあいいよね。しょーがない。みたいなニュアンスで。
お袋感が出ているのか、初対面に近いのに秘密をカミングアウトしてくる人もいる。
自分の本音を話すとスッキリするし、受け入れてくれたら気持ちが良いじゃないですか。だけど、話す相手って選びますよね。(もう人生で関わらない薄いレベルの関係は除く。たまに公衆便所代わりにされているのかってくらい話し出す人がいる)
だから、私を選んでくれて話して気が楽になるんだったら本望です、という感じなんですけど。
でも、自分では寛容っていうのがしっくりきていない。
私は、そこまである一面やエピソードを重要視していない。だから、それは無関心に近いんじゃないかと思っている。
何ていうか、その一面があったとしてもその人自身は変わらないわけであって。
もし仲の良い友だちが犯罪を犯したとする。行為は何であれ犯罪という以上一般的には許されないことだけど、私はこれからも友だちのままでいると思う。
心身の健康を損なった人ならわかると思うけど、健康な心では思いもよらないことをしてしまったり、衝動的な考えに至ることもある。
誰でも罪を犯すかもしれない因子はあって、まだそうなっていないだけで。
人の性格や特徴を都度変わっていく構成要素の一つとしか捉えていないから、あまり人の好き嫌いってないんですよね。
ただ、美学がないなーって思うのは、自分の目で見たり、自分の耳で聞いたりしたわけでもないのに、人の噂話を信じて態度とか変えちゃう人ね。
全くまとまっていないけど、今これを書いている私の顔つきはマリア様そのものだと思うので、私はやっぱり寛容であるということで締めたいと思います。